日本的历史

第二章 日本の歴史

奈良時代の文化は、遣唐使によってもたらされた唐の文化の影響を強く受け、さらにペルシャ(イラン)、インドの文化の影響もみられる国際色豊かな文化であった。また、寺院建築や仏像彫刻などの仏教芸術が発達したが、このような奈良時代の文化は、聖武天皇のときの年号をとって天平文化とよばれる。 聖武天皇は仏教の力によって国家を守ろうとし、741年、国ごとに国分寺・国分尼寺をつくらせ、都には東大寺とその本尊の大仏をつくらせた。東大寺正倉院は、聖武天皇の愛用品などを納めた、校倉造(あぜくらづくり)の倉庫である。

仏教美術と並ぶこの時代の文化上の金字塔は「万葉集」である。「万葉集」はハ世紀半ばまでの約400年間の庶民から天皇に至る約4500首の歌を集めた歌集で、率直に上代日本人の素朴な生活感情が表現されて、今でも多くの日本人に愛されている。この外に現存する最古の歴史書「古事記」(712年)、最古の勅撰(ちょくせん)歴史書「日本書紀」(720年)、最古漢詩集「懐風藻(かいふうそう)」(751年)なども当時の遺産である。

(4)平安時代

桓武天皇の頃、平成京では貴族の争いや僧が政治に進出してきたことなどから政治が混乱し、墾田(かんでん)の私有などによって律令政治がゆるみはじめた。そこで、都を移し、奈良からの寺院移転を禁止するなどして、政治の立ち直しをはかろうとした。また、平安京は淀川の上流にあって、平安京よりも交通の便がよかったので、794年(延歴13年)に都を今の京都の平安京に移した。平安京は、こののち明治維新にいたるまで約1000年間の都となったが、そのうち、鎌倉(かまくら)幕府が成立するまでの約400年間を平安時代とよぶ。

ハ世紀末に都を平安京(今の京都市)へ移し、律令(りつりょう)体制の再制を図ったが、公地公民制が崩れて、国家は財政難に陥った。894年最後の遣唐使の派遣をしてから遣唐使派遣を中止したので、大陸文化の大量輸入も途絶えた。

10世紀~11世紀、藤原氏(ふじわらし)が政権を独占し、荘園を経済的基盤としてから全盛を誇るが地方政治の混乱によって治安が乱れ、武士団が成長していった。11世紀末に藤原氏に対抗して、院政が始まると武士が中央政界に進出してくる。

桓武天皇

桓武天皇は、まず平安京の建設に力をそそいだ。都に新しい寺院として東寺と西寺を建てたが、奈良の大寺院(僧)の勢力が政治に入りこまないようにするため、平城京の寺院を平安京に移すことは禁止した。

桓武天皇は、律令政治を立て直そうとして、国司や郡司に対する監督を厳しくして不正を取り締まったり、6年ごとにおこなうことが難しくなっていた班田収授法を12年ごとに改めて励行させたりした。

桓武天皇は渡来人の子孫である坂上田村麻呂を征夷大将軍にして、朝廷による支配に対して反乱をおこした東北地方の蝦夷(えみし)を攻めさせた。 藤原氏の摂関政治

藤原(中臣)鎌足の子孫で有力な貴族だった藤原氏は、娘たちを天皇のきさきにして、きさきが生んだ皇子を天皇にたて、天皇の外戚(母方の親戚)として権力を強めた。藤原氏は、10世紀後半から約1世紀間、天皇が幼いときには摂政、天皇が成人してからは関白になって、政治をおこなった。これを摂関政治という。摂関政治は、藤原氏という貴族が天皇の外戚となって天皇の権威を利用しておこなった貴族政治である。

平安時代は国風文化を特色として、九世紀にもまだ唐朝の影響を受けて、密教と漢文学の弘仁(こうにん)、贞観(ていかん)文化が栄えたが、10世紀以後大陸との直接交流がなくなって、日本独特の貴族(きぞく)文化が生まれた。かな文字が発明された。その代表は最初の敕撰和歌集「古今和歌集」(10世紀の始め)、世界最古の長編小説「源氏物語」(げんじものがたり)(11世紀の初め頃)、随筆(ずいひつ)「枕草子」(まくらのそうし)(1000年頃)などの文芸作品群である。

紫式部と清少納言

紫式部も清少納言も、藤原道長が摂関政治の全盛をほこった時代に、宮廷に女宮としてつかえた。このころ、藤原氏は、天皇のきさきにした娘の教養を高めるため、才能と教養のある貴族の娘を女官としてつかえさせた。二人とも、地位があまり高くない貴族の娘だったが、どちらも和歌や漢学に優れた父から教えを受けて教養をつみ、宮廷につかえたのである。

清少納言は、一条天皇のきさき定子(藤原道隆の娘)につかえた。「枕草子」は、その宮廷生活での体験や感想などを、するどい観察によって簡潔な文章にあらわしたものである。

紫式部は、清少納言が女官をやめたあと、一条天皇のきさき彰子(藤原道長の娘)につかえた。「源氏物語」は54帖からなる長編物語で、前編は貴族の理想の男性である光源氏、後編はその子の薫大将を主人公とし、登場人物の性格や感情などが優美にえがかれている。

藤原氏(ふじわらし)の摂関政治には、どんな特徴がみられたか。 ① 貴族の藤原氏が摂政・関白地位を独占し、一族が高い官職について、政治の実権をにぎっていた。

② 天皇の外祖父(外戚)になり、天皇の権威を利用して政治をおこなった。 ③ 天皇とともに役人(特に国司)の任命権をにぎったことが、藤原氏が大きな権勢をふるう原因となった。①①

④ その政治は、しきたりや儀式を重んじ、形式的におこなわれることが多かった。地方の政治も、国司の自由にまかせられるようになった。

平安時代の文化のうち、現在の生活や文化につながっているものはなんであるか。

① かな文字

平安時代に発明されたかな文字は、日本語を表す文字としてが現在も使われている。

② 年中行事

平安時代に貴族のあいだでおこった年中行事は、現在のひな祭り、七夕などのもとになる行事があった。また、現在行われている京都に祇園祭のおこりも平安時代である。

③ 座る生活

奈良時代まで貴族は室内で椅子と机を用いていたが、寝殿造りの室内では部分的に畳をしいて、座る生活になった。

④ 方角や日のよしあし

平安時代の貴族は、方角や日のよしあしがあると信じていたが、東北の方角を鬼門としてきらう習慣などは現在でもみられる。

3 中世(12世紀~16世紀)

中世の日本は鎌倉と室町の二つの階段に分かれる。

(1) 鎌倉(かまくら)時代

10世紀ごろから、貴族や地方豪族のなかから、軍事や武芸を専門とする武士があらわれた。地方の豪族や有力な農民は、土地や財産を守るため武装するようになった。各地の武士は源氏と平氏を武士の棟梁とあおぎ、大きな武士団を形づくった。源氏は東国の武士を、平氏は西国の武士をひきい、武士の棟梁となった。

平治の乱(へいじのらん)で源氏をやぶった平氏(平清盛)は、一族を朝廷のおもな役職や国司に任じ、さらにむすめの徳子を高倉天皇のきさきにして、藤原氏と同じように天皇の外戚となって政治の実権をにぎったが、長く続かなかった。

1180年~1185年にかけて源平の内乱がおこったが、平氏がほろんで、源氏が立ちあがった。1192年、頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命され、全国の武士の総大将としての地位についた。頼朝が鎌倉を本拠地にしてつくった武家政権を鎌倉幕府とよび、鎌倉幕府の続いた約140年間を鎌倉時代という。鎌倉幕府は、頼朝と武士のあいだの御恩と奉公の主従関係(主人と従者との関係)をもとになりたっていた。武士が土地(領地)をなかだちにして御恩と奉公の主従関係を結び、土地の農民を支配する社会のしくみを、封建制度とよぶ。


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